1月3日の日記

2008年1月3日 日常
 定期的というほど決まった間隔ではないので、断続的に緩慢に訪れるネガティブな感覚に支配される日。これもまた、月のものの一種なのかしらと疑いたくなってしまうほどに面倒な性格というか人格特性。

 悲観的なと他人に評価されてしまうことは多いけれど、悲観と言い切ってしまうと、その先に私が見つめてしまうのは真っ暗な穴であり闇。
 漠然とした不安と書き記してしまうと、己の精神の幼さの肯定でしかないようで、それはただの未熟さであったり盲目であったり幼稚さ加減であると言ってしまえるもの。
 そんな風にとらえられるほど、年若くはないから、この感情は何なのかしらと螺旋を描いて深みにはまる。
 
 ただ気が付いたら、終わることのなかった苦痛がいつかきれいに消えてしまって、覚えているはずのそれは、やっぱり月のものと同じに当該の時より不鮮明になってしまっている。
 忘れることが、忘れたように振る舞えるようになるのが、年経る事だとは聞いているけれど、別に忘れてしまいたいと切に願っているわけでもないから、なんだか思考が鈍感になってしまったようで悲しくも思えてくる。
 
 でも、こんな暗い命題に付き合い続けていられるほど、私の精神は強くもないから、いつかその答えは保留の果てに忘却へと向かっているようにも感じる。
 生きてきた分だけ、「おまえがわからない」と言われてきている気もするけれど、別に私自身私をわかった事なんて一度としてないのだから、私以外の誰かが私をわかることなんてあるのかしら、と、疑問に思わずにはいられない。
 口に出してそう言ったところで、どうしてかこの言葉を理解してはもらえないから、きっと何か別の答えを求めているのだろうとは予想できるけれど、私の中に存在しない気持ちを私が口にすることにいったいどれほどの意味があるのかは知らない。

 別に誰かを困らせる気もなければ、
 私自身が困っているわけでもない。
 
 私は私の言語化できる限界のことをしているだけで、それが足りないと言われるのならば、それは私の表現力がお粗末なだけだと思う。
 わざわざ気にしてもらう筋合いも、構ってもらう気もないのだし。

 不思議なのは、突き放している私自身が、私に投げかけられた言葉を、一人勝手にこね回して、複雑にしている様子が窺えるところ。
 もちろん私自身が私を見ている視点に立つから、これはただの主観でしかないのだけど、その主観はきっと独善的解釈の上での主観だけど、なぜだか楽しいと思えてしまう。
 基本的には楽観的な人間だから、人の悲観な様はお笑いでしかなかったりする。
 その対象が自分になったところで、それはかわらない。

 ただ悩んでいる自分と、悩んでいる自分を観察している自分の気持ちの間に軋轢があるだけ。葛藤と言ってしまえるほど苦痛を伴ってはいないから、もしかしたらただ単に精神が参ってしまっているだけなのかも知れない。
 
 結局は笑って終わってしまう私は、どこか捨て鉢なのかも知れないけれど、それほど私は私を見放しているつもりはなかったりする。
 理解を必要としていないだけで、ただそこに私があるだけだから。
 
 なければないだけのことだから。

 取り敢えず、日帰り温泉に行っておいしものを食べてきます。

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